松下電器産業(現パナソニックホールディングス)で、会長や社長を務めた中村邦夫氏が、2022年11月28日午前8時20分、肺炎のために逝去した。享年83歳。葬儀は近親者のみで行っており、後日、パナソニックホールディングスがお別れの会を行う。

  • 松下電器元社長 中村邦夫氏が逝去、「破壊と創造」掲げパナソニック再興に尽力

    松下電器元社長 中村邦夫氏が逝去

2000年6月に、社長に就任し、2001年度からは3か年の中期経営計画「創生21計画」を推進。「破壊と創造」を掲げるとともに、「創業者の経営理念以外、聖域なし」と宣言して、大胆な事業構造改革に取り組み、大幅赤字からの業績回復を実現した。

「Panasonic」を世界統一のグローバルブランドとして展開。その後のパナソニックへの社名変更に向けた布石を打ったほか、事業部制を廃止し、事業ドメイン制を採用。松下電工の子会社化や、松下通信工業、九州松下電器、松下寿電子工業、松下精工、松下電送システムの完全子会社化、国内家電営業および流通体制の改革、プラズマディスプレイパネル工場への積極的な投資を行うなど、「中村改革」と言われる構造改革を実施。ときには「50歳以上の社員はいらない」と発言し、波紋を呼んだこともあった。だが、「聖域なし」の言葉通りに、「破壊と創造」に向けて、大なたを振った経営者であった。

中村氏は、1939年7月、滋賀県出身。1962年に大阪大学経済学部卒業後、1962年に松下電器産業入社。1985年に家電営業本部首都圏家電統括部東京商事営業所所長に就任。1987年アメリカ松下電器パナソニック社の副社長に就任。1989年には同社社長に就いた。海外経験が長く、1992年にはイギリス松下電器社長、1993年には米州本部長兼アメリカ松下電器会長に就いた。1993年には取締役、1996年に常務取締役、1997年に専務取締役に就任。この年にAVC社の社長に就任した。2000年6月に社長に就任。2006年に会長に就いた。2012年に相談役、2018年に特別顧問となり、2020年3月に退いた。

  • アメリカ松下電器会長時代の中村氏。一緒にいるのは当時のアメリカ松下電器のクラフト社長

パナソニック ホールディングスの津賀一宏会長は、「デジタルテレビへの社運を賭けた投資では、『挑戦する心』を教えてもらい、とくに重要視していた『お客様第一』の精神や、『社会の公器』としての規範は、その後の意思決定における大きな心構えとなった。社長就任時に、経営理念をどのように語ればよいのかと尋ねると、『語るものではなく、背中で表現すれば良い』と簡潔明快な答えに、肩の力が抜けたこともあった。厳しい叱咤もあったが、深い洞察から滲み出るシンプルな言葉に救われた。時代の変化を敏感に察知し、多くの先手となる方向性を示してもらった。その道筋に沿って経営を進め、2018年には創業100周年を迎え、楠見社長にバトンを渡すことができた。感謝しても感謝しきれない」と述べた。

また、パナソニック ホールディングスの楠見雄規グループCEOは、「生涯を通じて、優れた先見の明と事業に対するあくなき熱意で、数多くの輝かしい業績と、未来につながる礎を残してくれた。『経営理念以外に聖域なし』として挑んだ事業構造改革により、IT バブル崩壊後の危機的状況をV字回復に導いた。常に経営理念に立脚し、卓越したリーダーシップを発揮し、『スーパー正直』の言葉に象徴される公明正大な姿勢を示したことに深く敬意を表する。次代を託された私たちは、中村さんの志を受け継ぎ、『物心一如の繁栄』に向けて社員一丸となって、社会やお客様へのお役立ちを果たしていく」と語った。

  • 2000年4月25日撮影、社長内定を受けた会見での中村氏(左)

2000年7月に、中村氏が社長に就任した際、パナソニックは、日本の製造業がリードしてきた20世紀型のビジネスモデルから脱却できず、「重くて遅い」体質が足かせとなり、成長が停滞していた時期でもあった。

また、創業者である松下幸之助氏が1989年に逝去してから10年を経た時期でもあり、この間、トップの求心力が弱まっていた時期とも重なった。

そうしたことからも、中村氏が掲げた「破壊と創造」は、パナソニックの体質転換を促進するものとして、また、日本企業の再生モデルとしても注目を集めた。

2000年11月30日に、大阪・中之島のリーガロイヤルホテルで、最初の中期経営計画である「創生21計画」を発表した中村氏は、「21世紀の新しい松下電器を創生するという意味を込めて、創生21計画と命名した」と切り出し、「1990年代の松下電器はトップの求心力が急速に弱まっており、トップの求心力を回復し、発展計画の基盤を作らなければ、今後の松下電器の成長をあり得ない。いま、トップに求められているのは破壊と創造のための決断と実行力である。20世紀の成功体験に基づく、従来の経営構造、企業風土を見直す『破壊』を行い、お客様にとっての価値を創造すべく、製造業としてなしうるサービスを創出するために、経営構造を『創造』する」と、改革に強い意思をみせた。

  • 2000年8月撮影、オーストラリアオリンピックのメインスタジアムを視察する中村氏。パナソニックはこのオリンピックで、映像音響システムや映像送出機器などを納入した

なかでも注目されたのは、「破壊」である。

ここでは、「新たな事業セグメントへの変更」、「モノづくり改革による超・製造業への脱皮」、「国内家電営業体制の改革」の3つを掲げた。

とくに、国内家電営業体制の改革は、まさに「聖域」と言われた部分にメスを入れるものとなった。

「街のでんきやさん」と言われるナショナルショップ(当時)は、最盛期には全国に2万7,000店舗を展開。同社製品の半分以上を販売するという力を持っていた。そのため、パナソニックは手厚い支援を行い、持ちつ持たれつの関係を築いていた。だが、「中村改革」では、この関係を見直し、すべてのナショナルショップを均一に支援するのではなく、自主自立できる販売店だけを支援する形とした。

「最初に流通改革に手をつけた時に、あちらこちらから、破壊なんてけしからん、という声が聞こえてきた。やっていることには自信があったが、この時ばかりは本当に苦しかった。その時に、こう考えた。創業者ならばどんな決断をするのか。それが改革の自信、推進の原動力につながった」

この言葉からもわかるように、決断を迫られるたびに、「創業者であればどう決断するか」を考えるのが、中村氏のやり方であった。

また、パナソニックとしては初となるマーケティングの名称を冠した部門を設置したのも、中村氏が取り組んだ破壊のひとつだ。事業部と営業、マーケティングがバラバラに意思決定し、社内調整の仕事が多かった「重くて遅い」体質を改善。事業部ごとにマーケティング予算が取られていたため、新たな製品に投資できないという課題も改善した。

たとえば、当時、収益をあげているテレビ事業部は、大規模な事業部予算をもとにテレビCMを打てるが、収益をあげていない事業部は広告費用が確保できず、訴求ができない状況にあった。とくに新規事業については、強い事業部でなければ予算が確保できないため、広告展開ができなかったのだ。だが、事業部の枠を超えて、製品を横断的にカバーするマーケティング本部が予算を管理。当時、新規参入したばかりのデジタルカメラの広告に、人気の浜崎あゆみさんを起用し、大ヒットを飛ばしたのも、事業部の壁を壊し、マーケティング予算を一本化した「破壊」の成果のひとつだ。

  • 2000年9月撮影、21世紀の新松下の姿を語ろう、という若手社員懇談会での様子

中村氏の社長1年目は、これまでの膿を出し切ることに力を注ぎ、2001年度の最終赤字は4,278億円と、パナソニック創業以来の大赤字となった。それでも、中村氏は改革の手を緩めなかった。

その結果、2年目には営業利益が1,266億円と黒字転換。3年目となる創生21計画の最終年度には最終利益も4,231億円と黒字転換してみせた。

2003年1月に、中村氏は、経営スローガンに、「一人ひとりが創業者」という言葉を掲げた。単独インタビューの際に、この理由について聞いたことがあった。

中村氏は、「松下電器は、最初は3人でスタートしたベンチャー企業。創業したら、成功しないと後がない。失敗すれば潰れる。いま、社員全員が創業者の気持ちになり、日に新たな気持ちで取り組まないといけない。そうしたことを考えたら、自然と出てきた言葉がこれだった」とする。

  • 2003年4月撮影、「一人ひとりが創業者」というスローガンと中村氏

創生21計画によって、21世紀型モデルへの体質転換を進めた中村氏だが、それだけの危機感を持って、構造改革に挑んでいたことがわかる。

一方で、「自分の意見を主張する人は嫌がられるが、こういう人ほど大切にしなくてはならない。軋轢を恐れず、組織や制度を超えて、自分の意見を実現しようとする人、つまり、異分子ともいえる人をどう生かすかが大切である。松下電器には、偏屈で、頑固な人間を活かす企業風土が地下水脈のように底流に流れている。自分が偏屈で、頑固者だから、それがよくわかる」としながら、「松下電器の経営者には、こうした人たちをうまく使えるだけの懐の深さが必要である。創業者はそのあたりはすごかった。ニコっと笑って、嫌な社員も持ち上げる。僕にはとてもできない。すぐにカーッとなってしまう」と、冗談まじりに話していたことを思い出す。

  • 2005年4月撮影、記者会見では厳しい表情をすることも多かった

記者会見では厳しい表情をすることが多く、コメントもぶっきらぼうなことが多かったが、取材ではそうした態度は陰を潜める。冗談が好きだった。

取材後の写真撮影の時間にも、「嫌いなものは、散髪と仮縫い、そして写真撮影」と語り、撮影スタッフにプレッシャーをかけることもあった。どうも動きを制限されることが嫌いだったようだ。

  • インタビューでは一転、おだやかな表情も

若いころから上司の言うことは聞かず、始末書は何枚も書いたと明かしてくれたこともあった。「こんな会社辞めてやる」と、辞表を胸にしまって出社したこともあったという。だが、上司には恵まれたと振り返る。

小学校では作文の授業は好きで、子供の頃の夢は新聞記者になることだった。それを裏づけるように読書好きの顔もみせる。社長時代も年間150冊を読破。休日は本屋に行って本をかご一杯にするのが楽しいと語っていた。「だけど、創業者(の松下幸之助)に惹かれて、松下電器に入社した」のが、パナソニック入りの理由だ。

海外経験が長い中村氏は、事業部のしがらみがない立場をうまく利用して、パナソニックの「破壊と創造」を実行したといえる。松下電器が21世紀型の企業体質へと転換する大きな一歩を踏み出した功績は大きい。ご冥福をお祈りする。

  • 社長時代、カメラを手に